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東京高等裁判所 昭和56年(行ケ)84号 判決 1984年6月28日

原告

アーガス・ケミカル・コーポレーション

右訴訴訟代理人弁理士

羽鳥修

被告

特許庁長官

右指定代理人

中村寿夫

外一名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

この判決に対する上告のための附加期間を九〇日と定める。

事実

第一  当事者の求めた裁判

原告は、「特許庁が昭和五五年一一月六日、昭和四六年審判第八九二二号事件についてした審決を取消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、被告は主文一、二項同旨の判決を求めた。

第二  請求の原因

一  特許庁における手続の経緯

原告は、昭和四三年(一九六八年)五月一日アメリカ合衆国にした特許出願七二五九三一に基づく優先権を主張して、昭和四四年一月二一日名称を「有機過酸化物重合開始剤の製造方法」(審査中に「第3ヒドロ過酸化第3アルキル過酸化エステルの製造方法」に補正)とする発明について特許出願(昭和四四年特許願第三八七一号)したところ、昭和四六年八月三日拒絶査定があつたので、同年一一月二六日審判を請求し、昭和四六年審判第八九二二号事件として審理され、昭和五四年二月二七日、特許出願公告昭五四―三八四七として出願公告されたが、その後昭和五五年一一月六日、「本件審判の請求は成り立たない。」との審決があり、その謄本は同月二六日原告に送達された。

二  本願発明の要旨

酸ハライドとハイドロパーオキシドとを反応してエステル化することからなる次式(Ⅰ)の有機過酸化物重合開始剤の製造方法において、

R、R1およびR2は、何れもメチル基、または2個がメチル基で1個がフエニル基であり、R3、R4およびR5は合計で11個までの炭素原子を有するアルキル基であるが、R3、R4およびR5のうち1個より多くはメチル基でないことを特徴とする有機過酸化物重合開始剤の製造方法。

三  本件審決理由の要点

本願発明の要旨は前項記載のとおりである。

ところで、英国特許第九八三八〇八号明細書(以下「引用例1」という。)の第二頁六四行ないし七三行には、「最も好ましい重合開始剤はトリメチル酢酸(ビバリン酸)に相当する酸:

(式中、R:メチル)のt―ブチルエステルである。

前記の式中のRはC1―C10直鎖状、分岐鎖状或いは脂環族のアルキルであつてもよい。例えばジメチルネオペンチル酢酸のパーオキシ―t―ブチルエステルである。」が記載されている。この記載中のジメチルネオペンチル酢酸のパーオキシ―t―ブチルエステル或い(Ⅰ)はジメチルアルキル(C1―C10)酢酸のパーオキシ―t―ブチルエステルのジメチルネオペンチル酢酸或いはジメチルアルキル酢酸として、市販のネオ酸を用いることは当り前のことであるから、引用例1には、「市販のジメチルネオペンチル酢酸或いはジメチルアルキル(C1―C10)酢酸のパーオキシ―t―ブチルエステルを重合開始剤として用いること」の発明(以下「引用例1の発明」という。)が開示されている。

そこで本願発明と引用例1の発明を比較すると、本願発明の特許請求の範囲の前提部分に記載されている「酸ハライドとハイドロパーオキシドと反応してエステル化することからなる有機過酸化物の製造方法」の構成要件は、米国特許第二五六七六一五号明細書(以下「引用例2」という。)の第一欄五三行ないし五五行の反応式からみて、公知技術であるから、本願発明の特徴は、「式(Ⅰ)に示される有機過酸化物を重合開始剤として提供すること」である。そして、本願発明の特徴における「式(Ⅰ)に示される有機過酸化物」のエステルの酸成分について明細書の表「Ⅰ」を参照すると、この酸成分のネオ酸には多量のジメチル体と少量のモノメチル体からなる混合ネオ酸も含まれるが、本願発物は、「(1) 式(Ⅰ)に示される化合物(注、化学常識的に精製物とみられる物質、以下「単品化合物」という。)の製造方法。(2) 式(Ⅰ)に示される化合物を主成分とする物質(注、単品化合物が少なくとも全体の半分を占める物質)の製造方法。(3) 式(Ⅰ)に示される化合物を含む物質(注、たとえ少量であつても、単品化合物を含んでおればよい物質)の製造方法。」の(1)ないし(3)の実施態様のすべてを包含するものであつて、その何れを包含するかは、出発物質、すなわちエステルの酸成分を形成する化合物による趣旨のものと解される。そしてまた、この「式(Ⅰ)に示される化合物」のエステルの酸成分を形成するネオ酸は、明細書の「表Ⅰ」によると、α―ジメチル体九五%及びα―メチル―エチル体五%からなるネオヘプタノイン酸を包含する。

一方、「ザ ジャーナル オブ ジアメリカン オイル ケミスツ ソサエティ」第四五巻一月(一九六八年)第五頁ないし第一〇頁、エム ヘファー・エー ジェイルトコフスキー共著「ネオ酸、化学と応用」(以下「引用例3」という。)の第五頁右欄三一行ないし三三行に「ネオヘブタノイン酸(C7)は約九五%の2、2―ジメチルペンタノイン酸と2―メチル―2エチルブタノイン酸である残りの部分からなる」と記載されているから、九五%の2、2―ジメチル体と五%のメチル―エチル体からなるネオヘブタノイン酸は、市販のネオ酸であり、このものはその成分組成からみて、市販のジメチルペンタノイン酸といえる。そして市販のジメチルペンタノイン酸は市販のジメチルアルキル(C1〜C10)酢酸に包含される。

そうしてみると、本願発明の特徴と引用例1の発明とは、市販のジメチルペンタノイン酸のパーオキシ―t―ブチルエステルを重合開始剤として提供することにおいて同一であるから、結局、本願発明は引用例1の発明と同一である。

したがつて、本願発明は特許法第二九条第一項第三号の規定に該当し、特許を受けることができない。

四  審決取消理由

本願発明における、「酸ハライドとハイドロパーオキシドとを反応してエステル化する有機過酸物の製造方法」の部分が公知技術であり、したがつて、本願発明は、特許請求の範囲としては方法の発明として表現されているものの、実質上、審決認定のとおり、一般式Ⅰのモノメチル体を重合開始剤として提供する、いわば用途発明であることは争わない。

しかしながら審決は、次の諸点で判断を誤つており、違法であるから取消されねばならない。

1  本願発明の目的化合物は、特許請求の範囲において一般式(Ⅰ)として示した、

であり、

その

部分がモノメチル体のパーオキシエステルよりなる重合開始剤(以下「一般式Ⅰのモノメチル体」という。)であるのに対し、引用例1の目的化合物は、審決に同じく一般式として示された(以下「一般式Ⅱ」という。)、

であり、

その部分

がジメチル体のパーオキシエステルよりなる重合開始剤(以下「一般式Ⅱのジメチル体」という。)である。したがつて、本願発明と引用例1とは重合開始剤として目的化合物が異なるから、これらを同一発明としたのは誤りである。

なお本願発明を実施した場合、目的化合物である重合開始剤に引用例1に記載された一般式Ⅱのジメチル体が含まれる可能性があることは認めるが、これは本願発明の目的には含まれないものである。

審決は、引用例1に記載の重合開始剤は本願発明の重合開始剤を必ず含む混合物であるということを前提としているが、この前提は誤まつている。

すなわち、引用例1には、モノメチル体からなる本願発明の重合開始剤については何等の記載もなく、いわんやそれが引用例1に記載の、ジメチル体からなる重合開始剤に必ず含まれているとの記載は全く無い。

引用例1には前記ジメチル体を得るためのネオ酸として、具体的にはジメチルネオ酸であるトリメチル酢酸及びジメチルネオペンチル酢酸が示されているだけであり、前記モノメチル体を得るためのモノメチル酸については何等の記載もない。

したがつて、前記前提が誤まつていることは明らかである。

2  審決は、本願発明と引用例1との目的化合物を同一であるとする根拠として、引用例1の発明が、原料としてモノメチル体とジメチル体との混合物であるネオ酸を使用して実施されることを前提としているが、この前提は誤りである。

市販のネオ酸を原料とすることは、引用例1に記載されていないし、化学常識からすると、引用例1を実施する場合、できるだけ純度の高いもの、理想的には純粋なジメチル体のネオ酸を使うのが当然である。

しかも引用例1には市販のジメチルネオ酸にはどのようなものがあるのか否かについては全く記載されていないし、ジメチルネオ酸にモノメチルネオ酸が含まれているか否かについては全く記載されていない。

また市販のネオ酸にモノメチル体が含まれているかどうかも不明である。

すなわち、引用例1には、前記のとおり、モノメチル体のネオ酸についての記載は皆無であり、引用例3には、モノメチル体のネオ酸とジメチル体のネオ酸との混合ネオ酸が開示されているが、そのような混合酸が市販のネオ酸であるとする根拠は皆無である。ちなみに、甲第六号証のカタログには、純度九七ないし九八%の市販のジメチルネオ酸が開示されているが、残りの二ないし三%にモノメチル酸が含まれているか否か不明である。残りの二ないし三%は他のジメチルネオ酸であるかも知れないし、全く別の不純物であるかも知れない。二ないし三%の中にはあるいはモノメチル体のネオ酸が含まれているかも知れないが、それは単に含まれている可能性があるというだけである。

本願発明のモノメチル体の出発原料としては、モノメチル体のネオ酸が確実に含まれていることが明らかなネオ酸しか用いることはできないから、たとい、種々のジメチル酸が市販されていたとしても、単に引用例1に市販のジメチル酸を用いるだけでは本願発明のモノメチル体を得ることはできない。

結局、引用例1にはモノメチル体のネオ酸を使用する技術的思想は見出すことができず、一般式Ⅰのモノメチル体を得られる可能性は全く示されていないといわねばならない。

3  審決は、引用例1の重合開始剤に比して顕著な本願発明の重合開始剤の効果を看過している。

すなわち、本願明細書の表Ⅲには、本願発明のモノメチル体の含量の高い重合開始剤を用いるほど、含有率に略比例してPVCの収率が向上することが、引用例1における重合開始剤の中で最も好ましいジメチル体との比較と共に示されており、また、本願明細書の実施例Ⅸ及び表Ⅵには、右ジメチル体の純品(1)、及び本願発明のモノメチル体の純品(3)についての実施例及びその効果が記載されており、何れの結果においても本願発明の重合開始剤の効果が引用例1に記載の重合開始剤に比して著しく優れていることが明記されている。

このように、本願発明のモノメチル体からなる重合開始剤が、引用例1に記載の最も優れたジメチル体の効果に比して著しく優れていることは、本願明細書の記載から明らかである。

もつとも、本願明細書の記載によれば、「表Ⅵに示されている……t―ブチルパーオキシ―2―メチル―2―エチルヘキサノエート(これは炭素数九のネオノナノエートのモノメチル体である。)については、ポリ塩化ビニル平均収率が36.3%であるのに対し表Ⅲに示されているネオノナノエート(表Ⅰの異性体分布を有するとすると、ジメチル体五六%、モノメチル体二七%とよりなる)は39.0%で前者の方が劣つているが、右本願明細書の記載は、ジメチル体が含有された方が優れた効果を奏することを意味するものでは決してない。

すなわち、本願明細書の表Ⅲに示されているネオノナノエートは、本願明細書の表Ⅰに記載のネオノナノイン酸から得られるもので、このネオノナノイン酸の構成成分は、実験の結果によれば、次の通りであることを示している。

1 2、2、4、4―テトラメチルバレリック酸 五六%

2 2―イソプロピル―2、3―ジメチルブチル酸(2、2―ジイソプロピルプロパン酸) 二七%

3 2、2―ジメチルヘブタン酸 一二%

4 炭素数8のオレフィン 五%

一方、本願明細書の表Ⅵに記載のt―ブチルパーオキシ―2―メチル―2―エチルヘキサノエートは、実質上純品(一〇〇%)のモノメチル体で、その酸部分は、その名称から明らかな如く、t―ブチルパーオキシ―2―メチル―2―エチルヘキサン酸であり、α―炭素原子の置換基は、一個のメチル基と一個のエチル基である。なお、このt―ブチルパーオキシ―2―メチル―2―エチルヘキサン酸は、2―エチル―2―ノーマルブチルプロパン酸と称呼することもできる。

ここで、表Ⅲに示されているネオノナノエートと、表Ⅵに示されているヘキサノエートとを比較すると、前者は六八%(五六+一二)のジメチル体を含むものであつても、二七%のモノメチル体は、二個のイソプロピル基で置換されたジアルキル体と看做すことのできるものであるのに対し、後者は実質上一〇〇%のモノメチル体からなるものであつても、一個のエチル基と一個のメチル基で置換されたモノメチル体であり、また、このモノメチル体は、ジアルキル体と看做すこともできるが、その場合の構造は、一個のエチル基と一個のノーマルブチル基を有する構造として把握される。このように、表Ⅲに示されているネオノナノエートは、表Ⅵに示されているヘキサノエートとは異なり、分岐した二個のプロピル基を有しているため、これが収率に好影響を及ぼしているのであり、同一条件下に、表Ⅵのモノメチル体単独使用を、ジメチル体単独使用と比較すれば、モノメチル体単独使用の方がジメチル体単独使用よりも常に優れた効果を奏する。このことは、同じ炭素数のモノメチル体の効果とジメチル体の効果との比較を示す実験の結果からも明らかである。

要するに、モノメチル体単独とジメチル体単独とを同一条件下(同一モル数使用、同一温度で実施)で使用した場合には、炭素数の多少に拘わらず常にモノメチル体を使用した場合の方が優れた効果が得られるのである。

このように、本願発明のモノメチル体単独またはその混合物を、ジメチル体単独と比較した場合、ジメチル体単独より優れた効果が得られ、またモノメチル体単独にジメチル体を混合した混合物は該モノメチル体単独使用に比して劣ると云うことは、本願発明の効果が本願発明に係るモノメチル体に基づくことを裏付けると共に、モノメチル体がジメチル体より優れていることを裏付けるものである。

また、本願発明によれば、本願発明のモノメチル体を得るための出発原料としてモノメチル酸を含む混合酸を用いることができる。このことは、モノメチル体が、純品として使用されるか混合物として使用されるかに拘わらず、予期できない優れた効果をもたらすことを見出したからであり、これも本願発明の効果であるが、このような効果に関して引用例1及び引用例3には何等の記載も示唆もない。

かかる作用効果の顕著な差異を評価すれば、本願発明と引用例1の発明とは到底同一ということはできない。

第三  被告の答弁

一  請求の原因一ないし三の事実は認める。

二  請求の原因四の審決取消事由の主張は争う。

審決の判断は、次に述べるとおり正当であつて、何ら違法の点はない。

1  1の主張について

一般式Ⅰのモノメチル体を重合開始剤として使用すること自体が引用例1に記載されていないことは認めるが、本願出願当時の技術水準によれば、当然、当業者は一般式Ⅰのモノメチル体をともに重合開始剤として使用し、実施するものとして理解することができるものであり、本願発明の目的化合物は、一般式Ⅰのモノメチル体の外に、一般式Ⅱのジメチル体を含む場合も包含しているから、これを排除しない限り、引用例1の発明と同一といわざるを得ない。その根拠としては、本願発明も原料として、ジメチル体、モノメチル体との混合物であるネオ酸を使用することを許容しているから、一般式Ⅱのジメチル体も目的化合物である重合開始剤として含まれるものである。

すなわち、本願発明の目的化合物は一般式Ⅰを有する有機過酸化物重合開始剤であつて、一般式Ⅰを有する化合物自体ではない。そして、一般式Ⅰを有する有機過酸化物重合開始剤との意味は、原告が本願の審判手続において述べ、また、審決で指摘したように、一般式Ⅰの化合物を含む混合物であり、混合物中における一般式Ⅰの化合物の含有量が僅かな場合でも本願発明の目的とする有機過酸化物重合開始剤であつて、その混合の態様は出発原料とするネオ酸によつて決るのである。例えば、明細書第二、三頁表一に示されているネオヘブタノイン酸を出発原料として使用した場合には、

(以下、一般式(A)という。)

の化合物と

(以下、一般式(B)という。)

の化合物の混合物が製造され、また、ネオノナノイン酸を出発原料として使用した場合には、

(以下、一般式(A)'という。)

の化合物と

(以下、一般式(B)'という。)

の化合物との混合物が製造され、一般式(A)及び(A)'の化合物は、一般式Ⅰの化合物の範疇に属する化合物ではあるが、混合物中におけるこれら化合物の含有量は表一より明らかなように一般式(B)及び(B)'に比して少量である。

他方、引用例1には、一般式

(以下一般式Ⅱという。)

で示される化合物(式中、Rは直鎖、分枝又は脂環式のC1〜C10を表わす)が重合開始剤として使用されることが開示されており、前記一般式(B)及び(B)'を有する化合物は何れも一般式Ⅱの化合物に属するのである。したがつて、本願発明の重合開始剤は必然的に引用例1に記載されている化合物を伴うものであり、このことは本願発明によつて得られた重合開始剤を使用すれば同時に引用例1に示された化合物を使用することになり、逆に、引用例1に示された化合物を使用する際には本願発明の目的化合物である重合開始剤を用いる場合も含まれるのである。すなわち、出発物質としてネオヘブタノイン酸やネオノナノイン酸などのネオ酸を使用して得た重合開始剤について、本願発明は一般式Ⅰの化合物に着目したのに対し引用例は一般式Ⅱの化合物について示しているのであつて、その実体において両者は区別ができない。(若し、仮にこのような本出願前公知の部分を除くことなく本願発明が特許されたとすれば、引用例に記載されている技術を実施した場合でも本願発明を実施したこととなり、甚だ不都合な事態が生ずるのである。)

すなわち、本願発明はモノメチル体を使用することを要旨としてはいるがジメチル体を包含していてもよく、(しかも量的にジメチル体の方がモノメチル体より少量の場合も含む。)、他方、引用例1においてはジメチル体を使用する旨記載されてはいるが、その製造工程より当然モノメチル体が包含される場合があるので、両者はその実施の態様において区別し難く、本願発明においてジメチル体を包含する場合を除去しない限り両者は同一発明と言わざるを得ない。

2  2の主張について化学反応においては、必ずしも純粋な製品を使用することが化学常識ではなく、目的に応じて悪影響を生じない適当な純度のものを使用するものである。特に、本件のような精製工程の困難な分野においては尚更であり、ネオ酸の製造上必然的にモノメチル体が伴われるものなのである。

市販のネオ酸がモノメチルネオ酸を含んでいることは、引用例3に示されている。

すなわち、引用例3には、「四種類の商品化されたネオ酸(合成トリアルキル酢酸)、C5、C7、C10及びC13はオレフィン、一酸化炭素及び酸触媒を用いて合成され」「ネオ酸はエンジェイ ケミカル カンパニーから入手される立体障害トリアルキル酢酸である。」、「ネオ酸C5(トリメチル酢酸)はガスクロマトグラフィー分析によると99.5%以上の純度を有し、異性体のない化合物である。ネオヘブタノイン酸(C7)は約九五%が2、2―ジメチルペンタノイン酸で、残りが2―メチル―2―エチルブタノイン酸である。……ネオデカノイン酸のアルファ炭素に結合しているアルキル基の典型的分析値を表1に示す。この分析値はまたC13ネオ酸の典型的アルキル基を示すものである。」と記載され、そして第一表にはネオデカノイン酸の分析値が示されている。右記載によれば、本出願前より、C5のネオペンタノイン酸、C7のネオヘブタノイン酸、C10のネオデカノイン酸およびC13のネオトリデカノイン酸が、本願明細書表Ⅰに製造者として示されているエンジェイ ケミカル社より市販されており、その組成は、ネオペンタノイン酸は99.5%以上のジメチルネオ酸からなるものであるが、ネオヘブタノイン酸は約九五%が2、2―ジメチルペンタノイン酸(すなわちジメチルネオ酸)で残りの五%が2―メチル―2―エチルブタノイン酸(すなわちモノメチルネオ酸)であることが、またネオデカノイン酸およびネオトリデカノイン酸もジメチルネオ酸とモノメチルネオ酸の混合物であることが明らかである。

甲第六号証のカタログによつて純度九七ないし九八%のジメチルネオペンタン酸が示されているからと言つて、純度九五%のジメチルネオペンタン酸に相当する引用例3に示されているネオ酸が市販のジメチルペンタン酸といつても決して不都合な点はない。

引用例3が引用例1の公告後に頒布されたものであつても、両者は本出願前に頒布されたものであるから、引用例1を検討するのに引用例3を参酌することは何ら差支えない。

前述のとおり、本出願前よりC5のネオペンタノイン酸、C7のネオヘブタノイン酸、C10のネオデカノイン酸およびC13のネオトリデカノイン酸がエンジェイ ケミカル社より市販されており、そのうちC7、C10およびC13のネオ酸はジメチルネオ酸とモノメチルネオ酸を含むネオ酸であることが引用例3に示されているのであるが、更に引用例3には右市販のネオ酸が、単純なアルコールやポリオールを使用したエステルの製造、パーオキシエステルや金属塩の製造等の用途に供されていることが記載されている。

この記載からすると、市販のネオ酸の一つの用途としてパーオキシエステルがあることは、既に本出願当時の技術水準であつたと言うことができる。

一方、引用例1の重合開始剤は炭素数が五ないし一四のジメチルネオ酸を原料とするものであるが、反応原料として市販のものを用いることは当業者の常識であり、右引用例3に示された市販のネオ酸はいずれも、炭素数が五ないし一四のジメチルネオ酸を含むものであり、しかも、その用途の一つとしてパーオキシエステルがあると見られているようなものであるから、当然に当業者は引用例3に示された市販のネオ酸はいずれも引用例1の重合開始剤の出発原料として適切なものであると見るものである。

このように本出願当時の技術水準にもとづいて引用例1を見た場合、ジメチルネオ酸とモノメチルネオ酸を含む引用例3記載の市販のネオ酸が引用例1の重合開始剤の出発原料として適切なものであると当業者が見るものである以上、引用例1の発明の出発原料として、モノメチルネオ酸を含むネオ酸を使用する思想はもはや新規なものではない。

仮に原告の言うように当業者が出発原料の純粋性を考えるものであるとしても、引用例3に記載された九五%が2、2―ジメチルペンタノイン酸と五%の2―メチル―2―エチルブタノイン酸からなる市販のネオヘクタノン酸などはジメチルネオ酸を九五%も含むものであるから、これは原告の言う「できるだけ純度の高いもの」に該当し、当然に引用例1の重合開始剤の原料として適切なものであると当業者は見るものである。

以上のとおり、本出願当時市販されているネオ酸がジメチルネオ酸とモノメチルネオ酸を含んでおり、そのものが、引用例1の出発原料として適切なものであると見られるものであるから、その反応生成物である引用例1の重合開始剤は一般式Ⅰのモノメチル体を含んでいるものと理解でき、したがつて、一般式Ⅰのモノメチル体の重合開始剤として使用する技術は、既に引用例1に於て実現されているものと見ることができるのである。

なお、甲第六号証のカタログにより本出願日前純度九七ないし九八%の2・2―ジメチルペンタノイン酸が市販されているとしても、それによつて本願明細書に記載されているエンジェイ ケミカル社の純度九五%のネオヘブタノイン酸が市販のジメチルペンタノイン酸でないとはいえないことは明らかである。

しかも、甲第六号証に示されている2・2―ジメチルペンタノイン酸の不純物の成分については言及されていないので、このペンタノイン酸には本願発明で使用するネオ酸が含まれていないとはいえない。むしろ、引用例3に示されている製法を考慮すると本願発明で使用するネオ酸が含まれていると考える方が普通であろう。

そうして、本願発明はモノメチル体よりなるネオ酸をエステル化した有機過酸化物重合開始剤の製造方法に関するものであるが、これについては原告はモノメチル体が少量含まれているネオ酸を使用する場合も本願発明の実施態様に含まれる旨述べると共に本願明細書において五%のモノメチル体を含むネオヘブタノイン酸を使用する場合を例示している。そして、前記の「少量」については何も説明されていない点を考え合せると二ないし三%のモノメチル体を含んだ場合は本願発明の範囲外であるとは必ずしも断定できない。してみると、たとい、甲第六号証に示されているネオ酸を使用した場合でも該ネオ酸がモノメチル体を含まないことを明らかにしない限り本願発明を実施したこととなる。

以上述べた理由により甲第六号証のカタログによつて純度九七ないし九八%の2・2―ジメチルペンタノイン酸が市販されていたとしても、審決で述べたように九五%2・2―ジメチル体と五%メチル―エチル体からなるネオヘブタノイン酸が市販のジメチルペンタノイン酸である点には変りがない。

3  3の主張について

既に述べた通り、本願発明がジメチルネオ酸およびモノメチルネオ酸を含む引用例3記載の市販のネオ酸を出発原料とする重合開始剤の製造を含み、一方、右引用例3記載の市販のネオ酸が引用例1の重合開始剤の出発原料であると見られるのであるから両者の重合開始剤は差異があるものと見ることができず、そうである以上、両者の重合開始剤の示す効果も差異があるとはみることができないのである。

したがつて、仮りにモノメチル体の使用による効果が、ジメチル体の効果に比して優れているとしても、そのことによつて本願発明の効果が顕著であるということはできない。

第四  証拠関係<省略>

理由

一請求の原因一ないし三の事実は、当事者間に争いがない。

二そこで、原告が主張する審決取消事由の存否について検討する。

本願発明における「酸ハライドとハイドロパーオキシドとを反応してエステル化する有機過酸化物の製造方法」の部分が公知技術であり、本願発明は、特許請求の範囲としては方法の発明として表現されているものの実質上、審決認定のとおり、一般式Ⅰのモノメチル体を重合開始剤として提供する、いわば用途発明であることについては、原告もこれを認めて争わないところである。

1  さて、<証拠>によれば、本願発明における重合開始剤は、一般式Ⅰのモノメチル体が一〇〇%含有されているものに限定されるものでなく、一般式Ⅱのジメチル体を含む場合をも包含しており、その公告公報の表Ⅰに原料として、ネオヘブタン酸を使用する場合には一般式Ⅱのジメチル体が九五%であるのに対し、一般式Ⅰのモノメチル体はわずかに五%であることが示されているところからみて、一般式Ⅰのモノメチル体が一〇%未満の著しく低い含有の場合をも包含するものであることが認められる。

ところで、<証拠>によれば、次のような事実が認められる。

すなわちネオ酸から得られた特定の有機過酸化物を重合開始剤として提供することにおいて本願発明と同一な引用例1には、一般式Ⅰのモノメチル体に着目した記載はないけれども、本願発明出願当時の当業者が引用例1の発明を実施する際には、引用例3によつて、本願明細書にも出発原料であるネオ酸の製造者として明記されているエンジェイ ケミカル社により同じく商品化されていることから市販のジメチルペンタン酸として一般的に入手可能なことの明らかな、そこに記載された、少なくとも五%のモノメチルネオ酸を含んだネオ酸をも、市販の出発原料とした重合開始剤を使用するのが当然である。したがつて、その際には必然的に一般式Ⅰのモノメチル体と一般式Ⅱのジメチル体との混合物が得られるから、前記判示事項にかんがみて、引用例1の発明の実施は、すなわち本願発明を実施することとなるので、両発明は同一発明といわざるをえない。

2  もつとも、原告は、引用例1の発明が原料としてモノメチル体とジメチル体の混合物であるネオ酸を使用して実施されることを前提とする審決の誤りの根拠として、先ず、引用例1にはその旨の記載がなく、引用例3に開示されているモノメチル体とジメチル体の混合ネオ酸が市販のネオ酸であるとする根拠がないと主張するが、この点に関しては既に前項認定にてらし理由のないことが明らかである。

さらに原告は、また、化学反応においては原料としてできるだけ高純度のものを使用するのが化学常識であるとし、甲第六号証のカタログの存在を挙げる。しかしながら<証拠>によれば、引用例1の発明や本願発明のような精製工程の困難な分野において、出発原料としてできるだけ高純度のものを使用する化学常識の存在を認めることはできないし、却つて、この種反応においては、目的に応じて悪影響を生じない適当な純度の製品を適宜使用するのが当業者の常識であるとするのが相当である。

そして<証拠>とともに成立に争いのない甲第六号証を検討すると、このカタログは、一九六六年、一九六七年用としてドクターセオドール シュウチャーツ有限会社の化学製品を宣伝・販売するためのもので(以下「シュウチャーツ・カタログ」という。)、一九六六年九月三〇日ドイツ学術叢書図書館に受け入れられており、一九六八年一月である引用例3の頒布を一年余遡る時点で頒布されたものであるが、前1項認定事実及び前記当業者の常識にてらし、本願発明出願当時において当業者が引用例1の発明を実施する際に、その出発原料として引用例3の混合ネオ酸を市販のネオ酸として適宜選択の対象とすることを何ら否定するものではない。結局これらに関する原告の主張は採用できず、審決の判断の誤りはないといわねばならない。

3 原告は、本願発明における一般式Ⅰのモノメチル体の純品の使用の場合の効果等をあげてその顕著さを主張するが、前1項認定によれば、本願発明は一般式Ⅱのジメチル体が殆んどであり、わずかの一般式Ⅰのモノメチル体との混合物の場合、すなわち引用例1の発明と同一の場合をも包含することが明らかであるから、原告が主張するところを根拠として本願発明と引用例1との効果の差異による発明の異同を論ずることはできず、その主張を採用することはできない。

三そうすると、本願発明が引用例1の発明と同一であるとした審決の判断には、原告の主張するような誤りはなく、違法の点はないから、これを理由として審決の取消を求める原告の請求は失当として棄却す<る。>

(舟本信光 杉山伸顕 八田秀夫)

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